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【前回まで】就職活動の末、日本ドリーム観光に内定をもらった「僕」。入社すると、まず全体研修が待っていた。
1987年4月。入社した僕を待っていたのは、机の上の研修だった。名刺の渡し方、電話の取り方、お辞儀の角度。三十度、四十五度、六十度。頭を下げる角度に名前がついていることを、僕はこの日、生まれて初めて知った。
次はお寺での泊まり込みである。座禅だ。もちろん初体験で、「たぶん人生で最初で最後やな」と思いながら足を組んだ。
当時は、新入社員を禅寺や山で鍛える「スパルタ研修」がはやっていたと記憶している。それに比べれば、うちの研修はずいぶん緩かった。ありがたい話である。ただ、僕はまだ知らなかった。本当の「研修」は、このあとのグループ各社めぐりにあったことを。
一社につき一週間ほど。新歌舞伎座、奈良のドリームランド、のちに配属される千日興行。パチンコの会社は縁がなくて行かなかった。どこへ行っても、新入社員の僕は「お客さん」と「見習い」の中間にいた。
ここで、大劇ビルの話をしておきたい。
千日前にあるこのビルは、娯楽を一棟に詰め込んだような場所だった。入っているのはテナントだけではない。グループの営業会社が、いくつも同居していたのである。
地下にはキャバレーとジャズ喫茶。地上一階にはパチンコ屋さん。二階にはボウリング場、三階にはビリヤード場。その上の階には劇場が二つ入っていて、二本立て、三本立てで上映する二番館と、ポルノ映画館が並んでいた。さらにビルの横には、射的場があった。
飲む、歌う、転がす、突く、撃つ、観る。人間の遊びが、ひとつの建物に全部入っていた。のちに僕が配属されるのも、このビルである。
そのなかで、一番忘れられないのが、地下のキャバレーだ。
地下へ降りて扉を開けると、大きなフロアが広がっていた。ミラーボールに赤いソファ。ただし、どこか静かだ。昭和のキャバレーは、すでに下火になっていた。
夕方になると「同伴」の時間がくる。ホステスさんがお客さんと連れ立って出勤してくるのだが、その女性たちがもう、六十代、下手をすれば七十代。お客さんはさらに上をいって、七十代、八十代。従業員を含めて、フロア全体が日本の高齢化を数十年先取りしていた。
ところが、これがめっぽう元気なのだ。
お酒が入ると、主役は決まってカラオケである。
当時のカラオケは、まず8トラ。伴奏が入ったカートリッジ式のテープで、歌詞は手元の本を見ながら歌う。これが1970年代に生まれたカラオケの原型だ。
そこへ登場したのがレーザーディスクである。CDよりはるかに大きい30センチの円盤で、画面に映像と歌詞が流れ、歌うところは色が変わっていく。「絵の出るカラオケ」。黒服さんが円盤をそっと扱う手つきを、僕は拝むように見ていた。
僕の仕事は、飲み物の運搬と、接客のまねごとだ。水割りを運び、氷を替え、おじいちゃんの隣に座る。何を話していいかわからない僕に、ホステスのミチコさん(仮名)が声をかけてくれる。
「どうや、兄ちゃん。慣れたか?」
みんな優しかった。新入社員の僕を、孫でも見るような目で面倒を見てくれた。
八十歳くらいのお客さんは、マイクを握ると別人になった。演歌を一曲、堂々と歌い上げる。拍手が起こる。僕も叩いた。あの店で一番真剣に拍手していたのは、たぶん新入社員の僕である。
配属先がここでないことは、最初から分かっていた。新入社員にキャバレーの仕事をさせるわけがない。「こういう会社も経営している」という、見学のための研修だったのだろう。それでも一週間、僕はたしかにあの店の一員だった。
最終日。大劇ビルの地下から地上へ上がる前に、もう一度フロアを振り返った。
こういう世界もあるんやな、と思った。そして同時に、ここはもう、なくなっていくんやろな、とも思った。ミラーボールの光も、色あせたソファも、歌い終えたあとの拍手も、全部がゆっくり沈んでいく船のように見えた。
新入社員が感じるには少し早い寂しさを抱えて、僕は千日前の夜の中へ出ていった。
(Night 3へ続く)