カテゴリー: 千日前一夜物語

あらすじ
大阪・千日前の大劇ビルを舞台にした、実話ベースの短編連作です。新入社員として日本ドリーム観光に入社し、その後ダイエーに吸収合併され、ダイエーの社員になりました。入社から合併、そしてダイエーの社員として働いた数年間までの出来事を綴ります。物語は、まず大劇ビルでの話を中心に進み、その後ダイエーでの話へと移っていきます。時系列どおりに並ぶとは限りません。(人名は仮名です)

  • 【前回まで】射的場の経理を任された僕は、ミナミの大劇ビルで働き始めた。今回は、同じビルの映画館の話。

    ※実話をもとにした短編連作です。人名はすべて仮名です。

    大劇ビルは、よく言えばにぎやか、悪く言えば雑多なビルだった。

    地下一階には、ジャズ喫茶とキャバレーがある。ジャズ喫茶はボウリング場の方から入り、キャバレーはまったく別の入り口から入る。一階はパチンコ屋で、道路に面した横手に、僕が担当する射的場があった。二階がボウリング場。三階が僕の働く事務所で、横にビリヤード場。そして四階と五階に、映画館が二つ入っていた。

    大劇名画座と、大劇シネマである。

    名画座は、洋画の二本立て。邦画はほとんどやらなかった。シネマは、ポルノ映画の二本立て、三本立てで、オールナイトの営業だった。ビルの中だけで、世の中のだいたいのことが一通りそろっていた気がする。

    この二つの映画館を、一人で管理している人がいた。支配人である。仮に岡田支配人としておく。

    岡田支配人は、とても小柄な人だった。背が低くて、いつもニコニコしている。怒った顔を見た記憶がない。階段ですれ違うと、必ずニコニコしながら会釈をしてくれる。僕のほうが新入社員なのに、なぜか僕のほうが恐縮して会釈を返していた。

    僕は映画が好きだ。大学では映画研究会に入り、8ミリで自主映画を撮っていた人間である。その僕が、映画館の入っているビルで働いている。これは、行くしかない。

    ここで登場するのが、「業務視察証」である。

    これを持っていると、視察という名目で映画館の中に入れる。何を視察するのかというと、映画を見るのである。

    僕は、岡田支配人によく書いてもらった。

    「すみません、今日もちょっと視察に行きたいんですが」

    「ああ、ええよ、ええよ」

    ニコニコしたまま、さらさらと書いてくれる。断られた記憶は、一度もない。

    仕事が終わると、その紙を持って階段を上がる。窓口で紙を渡し、何事もなかったような顔で席に座る。映画を見て、そのまま帰る。

    視察は、している。たぶん、している。

    ところで、うちの映画館がかけている映画は、有名どころではなかった。二級作品を二本立てにしたものが、ほとんどである。

    経理を担当していた僕には、わかっていたことがある。映画の借り方には、二通りあるのだ。興行収入の何パーセントかを払う歩合と、一本いくらで借りる一括のレンタル。うちの二館は、主に後者だった。

    一括で借りると、利益率が高い。お客さんが入っても入らなくても、払う額は同じ。つまり、当たりの映画を引けば、利益がぐんと上がる。逆に外れを引くと、ガラガラの客席に、二本とも外れを見せることになる。

    要するに、映画館の経営は、博打に近い。

    その博打の胴元が、あのニコニコした支配人だと、僕は長いこと思っていた。

    ある日、事務所で何気なく聞いてみた。

    「今度の映画、どうやって決めてはるんですか」

    答えたのは、支配人ではなかった。事務所の隅で、映画の看板を描いている先輩である。筆を置いて、ふり返って、優しい声で言った。

    「ああ、それな、おっちゃんが決めてるんよ。言うてへんかったかな。ごめんな」

    謝られてしまった。

    何をかけるのか決めていたのは、同じ事務所で絵を描いている人だったのである。

    「映画、好きなんやろ。今度のは、ええ絵が描けたから、見ておいで」

    僕は「視察に行きます」と答えた。

    視察証を書いてくれる人と、見る映画を決める人は、別々にいた。映画を決めるのは、看板描きの先輩。ハンコを押すのは、ニコニコの支配人。見るのは、僕。

    分業は、完璧だった。

    (Night 8へ続く)

    業務視察証
    Night 7

    【前回まで】射的場の経理を任された僕は、ミナミの大劇ビルで働き始めた。今回は、同じビルの映画館の話。 ※実話をもとにした… 詳細を見る →

  • 【前回まで】千日興行の研修では、二番館のもぎりを担当した。そして配属先も、結局その千日興行になった。

    ※実話をもとにした短編連作です。人名はすべて仮名です。

    配属の発表は、拍子抜けするほどあっさりしていた。

    「千日興行。大劇ビルの管理事務所や」

    予定通りである。喜んでいいのかわからないまま、僕は大劇ビルの上の階にある事務所へ向かった。

    部屋には思ったより人がいた。部長、課長、係長、主任、そして先輩社員。そこに新入りの僕が加わる。ピラミッドの一番下は、意外と座り心地がよかった。

    同じ部屋に、年配の広告担当の男性もいた。仕事は映画の看板描き。写真一枚から名場面を選び、文字と絵に起こして立て看板に仕上げる。上映は二週間から三週間弱。基本は二本立てだから、毎日どこかの映画の看板を描いていることになる。

    その横で、僕たちは電卓を叩く。映画の絵と経理が同居する部屋。実に千日前らしい取り合わせだった。

    肝心の仕事は経理である。朝、各施設の売上を金庫から集め、入金し、伝票を書く。入金伝票、振替伝票。複写式の紙に、もちろん手書き。デジタルのデの字もない。

    僕は経営学部の出身だ。聞こえはいい。ただ、簿記はほぼ未経験で、貸方と借方のどちらがどちらかもわからない。それでも先輩方は、笑いながら一から教えてくれた。ここから僕の経理人生が始まる。

    とはいえ、仕事はのんびりしていた。午前中は、集めた売上を本社前の銀行に預けに行く。用事はそれで終わりである。あとは近くの喫茶店で時間をつぶし、昼はご飯を食べてビリヤードを一ゲーム。経理処理は昼からゆっくり始める。

    経理とは、こんなに優雅な仕事だったのか。入社したばかりの僕は、本気でそう思った。

    そんな僕に割り当てられたのが、射的場の経理だった。

    射的場は、大劇ビルの1階。ビルの横手にあり、道路に面した一角である。事務所は上の階だから、帳簿の数字だけ眺めていても実態はわからない。そこで僕は、話を聞きに階下の射的場へ通うことになった。

    まさか、的屋の帳簿をつける日が来るとは。夢にも思わなかった。ただ、最初の練習台としては、ちょうどよかったのかもしれない。

    射的場の担当は二人。年配の男性の田島さんと、女性の山口さん。(仮名)

    射的にも原価率というものがある。売上のうち、景品としてお客さんに返す割合だ。月の売上は意外と多く、確か150万円ほどあった。

    ある日、いつものように射的場へ話を聞きに行くと、田島さんが景品の棚で、何やらごそごそやっていた。見ると、景品の端に、ほんの少しだけテープを貼っている。

    「田島さん、それ……」

    僕は新人なりに勇気を出して聞いた。

    「そんなんして、ええんですか」

    田島さんは手を止めずに言った。

    「ちょっと落ちにくうしてるだけや。ええねん、ナンバやから」

    ナンバやから。

    大学では教わらなかった理屈である。しかし、この一言で全部が片づく空気が、千日前には確かにあった。

    そのとき、僕はもう一つのことに気づいた。

    テープを貼る田島さんの右手の人差し指は、先が欠けていた。

    射的は、人差し指で引き金を引く遊びである。その射的場を任されているのが、人差し指の先のない人。

    事務所では、こんな噂を耳にしていた。若い頃、徴兵を逃れるために、自分で指先を切り落としたのだという。本当かどうかはわからない。聞く勇気もなかった。

    もし噂が本当なら、引き金を引かないために指を失った人が、いま、お客さんに引き金を引かせる商売をしている。人生とは、なんとも皮肉なものだ。

    田島さんは何も言わず、景品の位置を直している。その横顔は、いつもと変わらず穏やかだった。

    僕は何も聞かなかった。気づかなかったふりをして、景品の話に戻った。

    事務所へ戻る道すがら、僕は思った。貸方と借方の次に覚えるべきは、人の過去を詮索しないこと。そして、困ったときの魔法の言葉「ナンバやから」。この二つらしかった。

    (Night 7へ続く)

    ミナミの経理見習い
    Night 6

    配属後の大劇ビルの事務所と、射的場の経理見習い。昭和の終わりのミナミ・千日前を描く実話ベースの短編連作『千日前一夜物語』… 詳細を見る →

  • 【前回まで】新歌舞伎座の研修では、「昼でも『おはようございます』」の世界を体験した。

    最後の研修先は、千日興行だった。
    大劇ビルの中にあって、僕がのちに配属を希望していた会社である。このビルの二階にはボウリング場、三階にはビリヤード場。その上の階に劇場が二つ入っていて、ひとつはポルノ映画館、もうひとつが一般の映画館。ビルの横には射的場があり、地下にはジャズ喫茶。千日興行は、そんな遊びの詰め合わせのような場所で、いくつもの商売を営んでいた。

    研修の期間は、一週間ほど。僕が担当したのは、一般の映画館である。ポルノ映画館のほうは、研修では担当していない。
    一般の映画館といっても、封切りの映画をかける映画館ではない。二本、三本の映画をまとめて上映する、いわゆる二番館だ。
    今でこそ、ほとんど見かけなくなったけれど、昔はこういう二本立て、三本立ての映画館が、街のあちこちにあった。大阪なら新世界あたりが代表格だったと思う。
    気になって調べてみたら、新世界で長く続いていた老舗の名画座、新世界国際劇場でさえ、今年の三月末に閉館していた。洋画の三本立てが売りで、座席は自由、出入りも自由。そんな映画館が、2026年まで残っていたこと自体、すごいことなのかもしれない。

    僕の仕事は、もぎりである。
    もぎりというのは、お客さんが持っている切符をちぎって、半券を渡す仕事だ。お客さんを案内するようなことは、特にない。席は自由席なので、好きな席に好きなように座ってもらう。
    「いらっしゃいませ」と言って、切符をちぎって、半券を渡す。その繰り返しである。仕事としては、とても簡単なものだった。今では、もぎりという言葉も、あまり聞かなくなった。

    二番館のいいところは、封切りを見逃した映画に、安く追いつけることだ。一本だけ観るつもりで入って、三本観て帰る人もいる。得をしたのか、時間を溶かしたのか、本人にも分からないところが、また魅力だった。
    この映画館は、いつ入ってもいいし、いつ出てもいい。
    だから、朝から晩まで、一日中いるお客さんも、少なからずいた。映画を観に来ているのか、ここで一日過ごしに来ているのか、ときどき分からなくなった。

    ひとつだけ、よく覚えていることがある。
    劇場が古かったせいか、歩くたびに、靴の裏に何かがべたべたとくっついた。粘着質の、あの感触である。掃除はされていたはずだが、それでも靴はくっついた。あれが何だったのか、今も分からない。分からないほうが、幸せなこともある。

    従業員の方々は、年配の人ばかりだった。もう何十年も、この仕事を続けているという人たちである。
    そんな先輩たちが、新入社員の僕を「フレッシュマン」と呼んで、励ましてくれた。
    「どうや、慣れたか」
    「しんどなったら言いや」
    みんな優しかった。派手な言葉はないけれど、その一言ずつが、うれしかったのをよく覚えている。

    研修中は、ひたすらもぎりをしていた。大きな事件が起こるわけでもなく、淡々と日にちが過ぎていった。
    同じ作業を、毎日、同じ場所で繰り返す。単調ではあったけれど、映画館という場所は、意外と居心地がよかった。新入社員には、いきなり難しいことを任せず、まず現場の空気に慣れさせる。そういう意味での研修だったのだろう。従業員の方々の動きや話し方を見ているだけでも、勉強になった。

    僕は、映画の仕事を希望していた。
    自分もここで過ごすことになるのだろうな、と思いながら、希望は出していた。けれど、配属は確定ではない。この時点では、どうなるのか、正直なところ分からなかった。

    そして、結論から言うと、僕の配属先は、ここになった。
    大劇ビルの千日興行。研修でもぎりをしていた、あの映画館のあるビルである。
    社会人一年目の本当の物語は、ここから始まる。

    (Night 6へ続く)

    もぎりと、二本立ての午後
    Night 5

    千日興行の研修、担当は二番館のもぎり。配属先は結局、大劇ビルの千日興行に。実話をもとにした短編連作『千日前一夜物語』Ni… 詳細を見る →

  • 【前回まで】奈良ドリームランドの研修では、ボブスレーの操作を任された。

    難波の一等地。御堂筋線の真上、というのが僕の記憶である。唐破風の立派な屋根をのせた劇場が、通りの真ん中で堂々と構えていた。新歌舞伎座だ。
    1958年の開場以来、タレントの芝居や歌謡ショーで大阪の観客を楽しませてきた「観光劇場」で、三波春夫さんのワンマンショーが十七年も続いた場所としても知られている。客席は1,600席あまり。設計は村野藤吾。大阪の街の真ん中に、お城のような劇場が建っていたのである。
    演目は、同じものを一か月続ける。いわゆる一か月公演だ。毎日同じ芝居が、毎日幕を開ける。
    そしてこの劇場の最上階には、日本ドリーム観光の本社の事務所が入っていた。つまり、僕の会社の本社である。のちに経理の仕事を担当するようになると、書類を持って本社へ向かう機会がたびたびあり、新歌舞伎座には何度も足を運ぶことになる。

    研修初日、僕は最初の驚きを経験した。挨拶である。
    お昼である。太陽は真上にある。ところが、初めて会う人にも、すれ違う人にも、返ってくる言葉はこうだった。
    「おはようございます」
    昼なのに、おはようございます。夕方でも、おはようございます。一般常識から、少しだけ外れている。

    あとで聞いた話では、芝居や放送の世界では、人によって一日の始まる時間が違うので、会った最初の挨拶は時間に関係なく「おはようございます」になった、と言われている。いわゆる業界の挨拶だ。日本ドリーム観光も、この流れをくんでいた。
    ただ、僕は入社したばかりの新入社員である。何が常識で、何が非常識なのか、まだ区別がつかない。違和感もないまま、気がつけば僕も、午後三時に「おはようございます」と言っていた。順応力だけは、昔から高い。
    考えてみれば、朝から夜までどの時間でも使える挨拶なのだから、実に経済的である。覚える言葉が一つで済む。新入社員にはありがたい。
    その証拠に、研修を終えた夜、家に帰った僕は、玄関で出迎えてくれた家族に、思わず言ってしまった。
    「おはようございます」
    夜の九時である。家族は一瞬、固まっていた。業界の挨拶は、思ったより早く、人を染める。

    新歌舞伎座は、各営業会社の中でも、いちばん華やかな場所だった。ここへの配属を希望する人は多かったと思う。
    客席に入ると、まず天井や壁を飾る極彩色の絵に目を奪われた。劇場というより、桃山時代のお屋敷に迷い込んだようである。
    僕は映画の仕事がしたくて入った人間だ。映画館の暗がりは好きでも、こういうきらびやかな場所には縁がないだろうと、最初から思っていた。

    ところが、研修で舞台の裏に入ると、そこには大スターがいた。
    高橋英樹さんである。
    スクリーンやテレビで見ていた人が、目の前に立っている。頭の中は真っ白になったけれど、口はちゃんと動いてくれた。
    「おはようございます」
    午後だった。でも、それでいいのだ。ここでは、それが正しい挨拶なのだから。
    常識から外れた挨拶に、あのときほど助けられた日はない。昼の「おはようございます」に感謝した。あの一言は、いまでも、僕のいい思い出のひとつになっている。

    研修そのものも、それなりに楽しかった。何事も経験である。舞台の裏側には、客席からは見えない仕事がたくさんあって、一日として退屈することがなかった。同じ芝居を一か月続けるということは、毎日同じ時間に、同じ準備を、同じ丁寧さで繰り返すということでもある。派手な舞台の下を、地味で確かな仕事が支えていた。

    ちなみに後日談がある。
    のちに新歌舞伎座へ配属された人たちは、みんな、どこか大阪でいう「シュッとした」人たちだった。立ち姿、着こなし、話し方。さすがは日本ドリーム観光の中でも、いちばん華やかな職場である。
    それを思うと、「おはようございます」と言えただけで舞い上がっていた新入社員の僕は、やはり、配属とは縁がなかったのだと思う。
    それでも、縁は切れなかった。経理の仕事で本社へ通うようになり、最上階の事務所へは、何度も足を運んだ。
    僕には、僕の行く場所があった。ただ、この劇場は、思いがけず近い場所にあったのである。
    そして、あの昼下がりの「おはようございます」だけは、いまも耳の奥に、はっきりと残っている。

    (Night 5へ続く)

    昼でも「おはようございます」
    Night 4

    新歌舞伎座での研修で味わった、昼でも「おはようございます」の世界。大阪・千日前を舞台にした短編連作『千日前一夜物語』Ni… 詳細を見る →

  • 【前回まで】お寺で座禅の研修を受けたあと、地下のキャバレーで1週間の研修を受けた。

    次の研修先は、奈良ドリームランドだった。
    入社した日本ドリーム観光は、もともとこの遊園地を開いた会社である。開園は1961年7月1日。創業者がアメリカのディズニーランドに惚れ込み、「日本にもあれを」と夢見たのが始まりだと聞いている。ディズニー側は協力的だったが、「ディズニーランド」の名前を使うことは認められなかった、とも言われている。
    それでも、お城があり、メインストリートがあり、ボブスレーまである。見た目は、どこからどう見ても「あの夢の国」だった。

    ピークの1970年代には、年間150万人から160万人が訪れたという。夢の国は、たしかに日本の家族を夢中にさせていたのである。

    僕が行った1987年には、その賑わいはもう遠い話になっていた。
    平日の園内は、ガラガラだった。来るのは遠足の子供たちくらいで、あとは風が通り抜けるだけ。お城はあるのに、住人がいない。夢の国というより、夢のあとの国だった。

    僕の担当は、ボブスレーの操作である。
    ディズニーのマッターホーンを手本にした、白いコースを駆け下りる乗り物だ。看板には、時速80キロ、90キロと勇ましい数字がうたわれていたと記憶している。実際は、そんなには出ない。もちろん安全な速度で運行している。それでも、風を切るスピード感はそれなりにあって、乗ればちゃんと楽しい。これは間違いない。
    夢の国の数字は、少しだけ夢を見せてくれる。そういうことにしておこう。

    問題は、お客さんがいないことだった。
    持ち場に立つ。そりが戻ってくる。誰も乗っていない。また立つ。時計を見る。まだ十分しか経っていない。
    待つのも仕事、とは言うけれど、待つだけの一日は、驚くほど長い。夢の国の時間は、なぜか平日だけ止まっていた。

    周りの従業員さんたちも、同じように、お客さんの来ない持ち場で一日を過ごしている。
    この人たちは毎日これをやっているのか。そう思うと、一週間の研修で音を上げそうになっている自分が、少し恥ずかしくなった。
    正直に言う。この一週間は、とても辛かった。

    そんな園に、音が戻る日があった。遠足の子供たちが来る日だ。
    歓声が上がり、列ができ、そりが次々に出ていく。コースの向こうから、悲鳴と笑い声が一緒に降ってくる。
    「もう一回乗る!」
    そう叫ぶ子供の顔を見たとき、僕は初めて、自分が夢の国で働いているのだと思った。

    なんとか一週間を乗り切って、僕は次の研修先へ向かった。

    のちに、奈良ドリームランドは2006年8月31日に閉園した。横浜のドリームランドも、先に幕を閉じている。今となっては、どちらも過去の遺物である。
    寂しいが、それが現実だ。

    それでも、あの遊園地がたくさんの人を夢の世界へ連れて行ったことは、間違いない。
    僕はその端っこで、白いコースの前に一週間だけ立っていた。

    (Night 4へ続く)

    夢の国の平日
    Night 3

    奈良ドリームランドでの研修、担当はボブスレーの操作。昭和の終わりの新入社員を描く実話ベースの短編連作『千日前一夜物語』N… 詳細を見る →

  • 【前回まで】就職活動の末、日本ドリーム観光に内定をもらった「僕」。入社すると、まず全体研修が待っていた。

    1987年4月。入社した僕を待っていたのは、机の上の研修だった。名刺の渡し方、電話の取り方、お辞儀の角度。三十度、四十五度、六十度。頭を下げる角度に名前がついていることを、僕はこの日、生まれて初めて知った。

    次はお寺での泊まり込みである。座禅だ。もちろん初体験で、「たぶん人生で最初で最後やな」と思いながら足を組んだ。

    当時は、新入社員を禅寺や山で鍛える「スパルタ研修」がはやっていたと記憶している。それに比べれば、うちの研修はずいぶん緩かった。ありがたい話である。ただ、僕はまだ知らなかった。本当の「研修」は、このあとのグループ各社めぐりにあったことを。

    一社につき一週間ほど。新歌舞伎座、奈良のドリームランド、のちに配属される千日興行。パチンコの会社は縁がなくて行かなかった。どこへ行っても、新入社員の僕は「お客さん」と「見習い」の中間にいた。

    ここで、大劇ビルの話をしておきたい。
    千日前にあるこのビルは、娯楽を一棟に詰め込んだような場所だった。入っているのはテナントだけではない。グループの営業会社が、いくつも同居していたのである。
    地下にはキャバレーとジャズ喫茶。地上一階にはパチンコ屋さん。二階にはボウリング場、三階にはビリヤード場。その上の階には劇場が二つ入っていて、二本立て、三本立てで上映する二番館と、ポルノ映画館が並んでいた。さらにビルの横には、射的場があった。
    飲む、歌う、転がす、突く、撃つ、観る。人間の遊びが、ひとつの建物に全部入っていた。のちに僕が配属されるのも、このビルである。

    そのなかで、一番忘れられないのが、地下のキャバレーだ。

    地下へ降りて扉を開けると、大きなフロアが広がっていた。ミラーボールに赤いソファ。ただし、どこか静かだ。昭和のキャバレーは、すでに下火になっていた。
    夕方になると「同伴」の時間がくる。ホステスさんがお客さんと連れ立って出勤してくるのだが、その女性たちがもう、六十代、下手をすれば七十代。お客さんはさらに上をいって、七十代、八十代。従業員を含めて、フロア全体が日本の高齢化を数十年先取りしていた。

    ところが、これがめっぽう元気なのだ。
    お酒が入ると、主役は決まってカラオケである。

    当時のカラオケは、まず8トラ。伴奏が入ったカートリッジ式のテープで、歌詞は手元の本を見ながら歌う。これが1970年代に生まれたカラオケの原型だ。
    そこへ登場したのがレーザーディスクである。CDよりはるかに大きい30センチの円盤で、画面に映像と歌詞が流れ、歌うところは色が変わっていく。「絵の出るカラオケ」。黒服さんが円盤をそっと扱う手つきを、僕は拝むように見ていた。

    僕の仕事は、飲み物の運搬と、接客のまねごとだ。水割りを運び、氷を替え、おじいちゃんの隣に座る。何を話していいかわからない僕に、ホステスのミチコさん(仮名)が声をかけてくれる。
    「どうや、兄ちゃん。慣れたか?」
    みんな優しかった。新入社員の僕を、孫でも見るような目で面倒を見てくれた。

    八十歳くらいのお客さんは、マイクを握ると別人になった。演歌を一曲、堂々と歌い上げる。拍手が起こる。僕も叩いた。あの店で一番真剣に拍手していたのは、たぶん新入社員の僕である。

    配属先がここでないことは、最初から分かっていた。新入社員にキャバレーの仕事をさせるわけがない。「こういう会社も経営している」という、見学のための研修だったのだろう。それでも一週間、僕はたしかにあの店の一員だった。

    最終日。大劇ビルの地下から地上へ上がる前に、もう一度フロアを振り返った。
    こういう世界もあるんやな、と思った。そして同時に、ここはもう、なくなっていくんやろな、とも思った。ミラーボールの光も、色あせたソファも、歌い終えたあとの拍手も、全部がゆっくり沈んでいく船のように見えた。

    新入社員が感じるには少し早い寂しさを抱えて、僕は千日前の夜の中へ出ていった。

    (Night 3へ続く)

    座禅と、地下のキャバレー
    Night 2

    お寺の座禅研修と、地下のキャバレーでの1週間研修。昭和の終わりに入社した新入社員の千日前の日々を綴る短編連作『千日前一夜… 詳細を見る →

  • 1983年、ぼくは大学に入り、迷わず映画研究会の扉を叩いた。
    使うのは8ミリフィルムである。撮ったら終わりではない。そこからが本番だった。

    まず、フィルム代と現像代が高い。失敗しても撮り直しは利かない。
    現像から戻ってきたら、いよいよ編集だ。
    机に編集機を置く。左右に巻き取り用のリワインダー、手前にフィルムをつなぐスプライサー。
    真ん中のビューアーにフィルムを通すと、豆粒ほどの画面で映像が動く。
    ハンドルを回して一駒ずつ送り、切る位置を探すのだ。
    ここで初めて、手ブレと指の映り込みという二大事故が発覚する。

    切る駒にペンで印をつけ、スプライサーでガチャンと切る。
    別のカットを重ね、小さなテープで貼ってつなぐ。
    穴の位置がずれたら、上映のとき引っかかる。
    切りすぎたら、元には戻らない。
    床に落ちた数センチのフィルムを、四つん這いで探す。
    音はカセットテープに別録りして、あとで合わせる。
    当然ずれる。登場人物の口が閉じてから、セリフが聞こえてくる。
    ぼくらはそれを「味」と呼んだ。

    十数分の作品に、数か月かかった。
    完成した夜、初めて映写機を回して、部室の壁に映した。
    拍手は三人分だった。全員、出演者だった。
    それでも、あの手間が楽しかった。ぼくは本気で思った。
    この仕事を一生やりたい、と。

    そして就職活動の季節がやってきた。
    志望はもちろん映像関係。ところが三流大学の履歴書は、東宝や東映の受付で、枯れ葉のように舞っていった。
    「資料はお預かりします」
    その「お預かり」が「お返ししません」の丁寧語だと知ったのは、三社目あたりだった。

    営業は、無理だ。
    知らない人に笑顔で物を売る自分を想像しただけで、顔の筋肉がストライキを起こす。
    ゲームも好きだったのでメーカーにも当たったが、門は固かった。
    問屋に行くと、面接官にこう言われた。
    「君、ゲーム好き?」
    「はい!」
    「うちは箱を運ぶ会社だけどね」
    好きと運ぶは、別の競技だった。

    そんなある日、一社の名前が目に入った。日本ドリーム観光である。
    奈良と横浜にドリームランドを持つ会社だ。
    ただし、自分で遊園地を回しているわけではない。
    土地を貸し、その賃借料で稼ぐという、ちょっと変わった商売をしていた。
    営業は、傘下の各社が受け持っている。
    その一社、千日興行は、映画館にボウリング、ビリヤードと、
    遊びの総合商社のような会社だと聞いた。
    「映画館があるなら、映像の端っこには触れるかもしれない」
    ぼくは、藁にも映写機にもすがる思いで受験した。

    面接は手強かった。質問が飛ぶたびに、額が汗を撒き散らした。
    ハンカチが雑巾になった頃、最終面接は終わった。

    そして、連絡が来なかった。
    一週間、二週間。電話は鳴らず、郵便受けには広告しか入らない。
    映画なら暗転してテロップが入る場面だ。ぼくの場合は「その頃、彼は暇」だった。

    覚悟を決めて、こちらから電話をかけた。
    「先日最終面接を受けました者ですが……」
    「少々お待ちください」
    保留音が長い。人生がかかっているのに、曲は妙に明るい。
    「……ああ、君ね。採用の方向で進めてますよ」
    「ご連絡は……」
    「出したつもりでした」
    つもり。ぼくの二週間は、「つもり」に食われていたのだ。

    受話器を置いて、思った。
    8ミリは、切りすぎたら戻らない。
    だが人生のフィルムは、つないでみるまで、どんな絵になるかわからない。

    こうして、就職は決まった。
    映画会社でもゲームメーカーでもない。土地を貸す会社の、そのまた出向先である。
    そのフィルムが、とんでもない場面につながっていくことを、
    このときのぼくは、まだ知らない。

    (Night 2へつづく)

    門前払いの春
    Night 1

    大学の映画研究会から就職活動へ。門前払いが続いた春、日本ドリーム観光に内定するまで。大阪・千日前の短編連作『千日前一夜物… 詳細を見る →